米津玄師がインタビューでこんなことを語っていたらしい。
「音楽を創るのも本当は面倒くさい」
ヌードモデルとして17万人のフォロワーを持つすず屋。は自身の連載エッセイでこう語った。
僕はどうしてこう仕事がうまくできないんだろうか。
僕は文章を書くという分野においてはとりわけ才能がない。
「妄想資料室」(新書館)より
2人ともそれぞれの仕事で成功しているのに、仕事に対してめちゃくちゃネガティブだ。
どうしてだろう。「好きこそものの上手なれ」じゃないけど、自分の仕事をポジティブに捉えることができるからこそ、成功するものじゃないのかと思った。
しかし、その後のすず屋。さんの言葉は妙に自分の中に落ちた。
クオリティが高い商品が売れる。そんなのは世間の作った勝手なイメージなのだ。自分の作ったものを世に発表するという行為自体恥ずかしいことではないか。その度胸があるかないかの問題なのだから、己の痴態を見せてつけてやればいい。
自己表現は本来恥ずかしいものだ。
私は中学時代、演劇部で「自己表現」をしていた。
私は演劇という手段が1番自分を表現するのに向いていて、それが好きだと自覚している。
でも、演劇なんて、「恥を重ねる」行為の代表格ではないか。
入部当初に顧問から言われた言葉が「恥を捨てろ」だ。
おかしくもないのに笑って、怒って、泣いて、変顔をして、声を張り上げ、ドタバタと動き回る。
観客に何か感動的なものを届けることができたのなら結果オーライだが、観客にまったく届いていないことを肌で感じながらまじめに演じ続けるのはふつうに辛い。
でも、恥を捨てて表現したものが観客に届いたときの爽快感ときもちよさと満足感は、底抜けだ。
最近よく耳にする鬱ソングだって、同じじゃないか?
作曲者が自身の心の傷をえぐりにえぐって、見せつけてくる。
だからこそ、聴いたものの心に響いてしまうのだ。
すず屋。さんなんて大っぴらに自分の裸をSNSで見せつけている。本人はどう思っているかわからないが、私だったら恥ずかしさの極みでツイートボタンなんて押せやしない。
だから、実はそうなんじゃないかと思ったのだ。
表現者はみんな布団の中で思い出して1人恥ずかしさにもだえているんじゃないか、と。
米津玄師だってワンチャン布団をかぶって「なんでタイトル、レモンなんかにしちゃったんだろう」って思っているかもしれない。
そう考えたら、自己表現のハードルが急に下がった。
成功者だってみんな恥を晒しているんだ。
「こんなこと/ものを世の中の人に見てもらうのは恥ずかしいな」と思いつつ世に出してみる。
だって、誰かに伝わったら、底抜けのの爽快感ときもちよさと満足感を得られるから。
自分が他よりすこし得意なことを思いっきり世に見せつける。
米津玄師は曲だけじゃなく、歌も絵もダンスも、恥の上塗りで世に晒し続ける度胸があったんだ。
自分の恥をいかに世に見せつけられるか。
その度胸があるか。
「恥ずかしいこと」だと自分でわかっていて世に発表して良いのだから、結構、自己表現のハードルは低いんじゃないか。