映画「羅生門」人間って…にんげんって…

人間は正直であろうか。

いや、人間はなかなか常に正直ではいられない。

ふと、自分の都合の良い方に口は回ってしまう。

自分で意図して自分の都合の良いように口が回るならまだ良いが、自分で知らないうちに、口が勝手に主人に気を回して、都合の良い物語を作ってしまうこともあるのだから困りものだ。

いつ自分は、何を語ったか。

自分でわからないことがざらにあるのが人間である。

 

杣売の話が最も確からしいとすれば、3人はなぜそれぞれあんな話をでっちあげたのか。

 

女は、汚らしい盗賊だけでなく、これまで連れ添った夫にまで見捨てられたことはあまりに悔しく、恥ずかしく、情けなく感じたか。

であれば、自らの手で自らの小刀で、夫を終わらせた方が、その心は晴れたかもしれない。

 

多襄丸は、女に侮辱され、けしかけられ、腰引けたまま情けない刀を振るったことが悔しかったか。

洛中洛外で知られた多襄丸の名折れだと、後から恥ずかしくなったか。

自分で手籠めにし、辱めた女のまるで言いなりのように、情けなくも腰を引かせながら刀を振るうよりは、自らが主導権を握り、女に自分を求めさせ、男に情け深くも太刀を持たせた方が実に格好がつくと思うなどしたか。

 

金沢武弘は情けなかったろう。自分が捨ててやったと言わんばかりに突き放した妻に、あんなに嘲られては、家に一人帰っても眠れなかったろう。

恩を仇で返すように自分に牙を向いた妻を、卑しい盗賊の足の下に這わせ、その男に優しく情けをかけてもらう方がよっぽど自分の気は晴れただろう。

自分で自分の胸に小刀を突き立てる方がよっぽど格好がつくというものだろう。

 

杣売も杣売だ。

あったことをありのままに話してしまえば、じゃあ螺鈿入りの小刀がそこら辺に転がっていてお前が見なかったはずはないという話になってしまう。

それだったら、全員いなくなり、死体の断末魔も消え、さらに小刀もどこか霧の中に消えてしまった後の現場の状況を話すだけの方が、いやまったく、都合が良いのだ。

 

しかし、盗人と赤ん坊拾いが表裏一体だと、最後羅生門を背に歩いていく杣売はにやけず、油断せず、これから人の子を育てていく人間の正直な顔だと思いたい。