【小説】読書

2006字 日常SF

 

 舗装されていない坂道の上にある木造民家が今日から四日間の私たち家族の家だった。立派な古民家だった。私が両親に、どうやってこんな家を見つけてきたのと聞いても、二人ははっきり答えずにこにこ笑うだけだった。

 到着して、家の中を家族みんなで一通り見た後、夕食まで思い思いに過ごした。私はさっき奥の部屋で見つけた本を手に、誰もいない和室に入った。本は紙製の鼠色の箱に入っていた。本自体も特別感のない地味な見た目で、表紙には

水と愛について

とだけあり、作者の名前すらなかった。読み始めて私は水に浮いたような話だと感じた。捉えようとしても指の隙間から逃げてしまう。本を読んでいるはずなのに、私は家族と加賀を旅行した時のことを思い出していた。昔の思い出のように、全体を掴めず断片的だが、不思議と温かさはしっかりと伝わってくる。

 この話には登場人物が多く、彼ら一人一人が語る話が途中八本差し込まれていた。本編と同じようにその「話の中の話」、挿話も捉えどころがなく、人の勘違いを正す話などがあった。ただ、読んでいるうちに私の中で違和感が生まれてきた。その挿話はどれもせいぜい一ページにしかならず、話として充足せず要約のようだった。挿話の次を読み進めると、語りの前提とされている情報が私には欠落しているようで、読めば読むほど不明瞭になり、本が何を言いたいのかわからなくなってしまった。捉えどころがなくても意味はわかっていた先ほどまでとは違う。面白い本なのに、このままでは最後までたどり着けない。もう一度一本目の挿話の頭から読み返してみるが、やはり書いていなければならない情報がそもそも書かれていないようだ。読者を騙すような行為に少し腹立たしくなって、私は本を置いた。

 一度トイレに行った。戻ってきて、どうしようかと思いながら本の入っていた箱を取り上げてアッと声が出た。その本は二冊だった。一冊しか入っていないと思っていた箱には間仕切りがあり、自分が最初に見つけた本の五分の一程の薄さしかない二冊目の本がひっそりと収められていた。間仕切りが箱本体と同素材の同じ色で、薄い本の背表紙も鼠色だったから、箱に本が溶け込んでしまって気がつかなかったらしい。薄い本を抜いてみると、右側が紅色の糸で綴じられていた。あとで知ったが和綴じというやり方だった。中には、八編の挿話が収められていた。要約的なものでなく、長尺の、私の知りたいことが書かれているものだった。一冊目の方に書かれていたのは、この二冊目の各話の要約だったと今はっきり分かった。

 別のもう一冊があることに気付き、その中に八編の本編が存在すると読んで確認するうちに、私の心は高揚感に満たされた。私の心がいっぱいになっていくのに呼応するように、私の座っている座布団が風船か気球のように膨らみ、私の体は宙に持ち上げられた。床の二メートルほど上に浮かび、部屋を出て、家の中をぐるぐると移動し始めた。私は興奮に包まれ、二冊目の本の文章をなぞるように読んでいた。私の気が付かないうちに、私を乗せた座布団は母のいる部屋に入った。母は飛ぶ私を見て、十五秒ほど黙った後、手に持っていた柿ピーの袋を私に差し出して

「食べる?」

と聞いた。私は胸がいっぱいで物を食べられない気分だったので、

 「大丈夫。」

と言った。座布団は次に父と妹のいる部屋に入った。父は座布団を枕にして畳の上に寝転んでいた。妹はその傍で漫画を読んでいた。飛んで部屋に入ってきた私を見て、父は驚き、肘をついて身を起こした。頭を上げたので枕が空き、父は、そこに寝るかと問いかけるような顔を私に向けた。人は、見たことのない動きをする人間を見ると、自分たちの知っている日常的な動きに、その人間を戻したくなるのだろうか。妹は漫画から顔を上げて、目を見開いていた。飛ぶ私を見た母、父、妹に共通したのは、声を上げずにじっとこちらを見つめたということだった。驚愕して放心する、驚愕の放心だった。

 座布団が飛んで家の中を探検している間に私は八編の挿話と本編を読み終えた。本編の本の最後のページに紙切れが挟まっていて、読みやすい字で短い文章が書かれていた。この本の作者か編集者かわからないが、製本した人が書いたらしい。

 「一冊一冊紅色の糸で綴じていかなきゃならない羽目になった。針を一刺し、一刺し、慎重に刺した。『この本を受け取る人のことを考えて』と言う奴がよくいるが、その気持ちは私にはわからない。分厚い紙の束に針を刺すのは意外と難しく、やり終えたと思い本をひっくり返してみると、糸が斜めになってしまっているものもあった。それが今手元に残しているこの本だ。」

私が持っている本をひっくり返してみたら、糸が斜めっていた。いつの間にか私は座布団に連れられて最初の部屋に戻ってきて、畳の上に着地していた。座布団は飛ばない座布団に戻っていたが、運動した後の熱さがじんわりと足に伝わってきた。