夕方5時発、混み合う電車の、沈んだ空気

ひさしぶりに都内に出てきて、電車に乗った。

時刻は午後5時ごろ。

退勤ラッシュには早いと思っていたが、退勤時間が早まっているのだろうか、思いのほか車内は混み合っていた。

人と人との肩が触れ合う程度だ。

 

わたしは両手がふさがっていたので、スマホを見ることもなく、窓の外の景色や車内のようすをなんとなく視界に入れていた。

 

目の前の座席に座っている人は、列の奥からスマホスマホ、居眠り、スマホ、本、居眠り

 

目の前の扉に寄りかかる人は、かなり疲れたようすで、ようやく立っているといった様子だ。

手にはスマホ

 

疲れ、疲れ、疲れ、しんどい、疲れ、帰りたい

 

そんな心の声が、ひとりひとりから滲み出ているようで、わたしは心が落ち着かなかった。

 

混み合う電車って、こんなに人との距離が近い場所だったっけ…

 

少しでも奥に入ろうと無言で体を捻じ込ませてくる人

(出入り口近くに留まるより奥に入るべきことはわかっている)

降車駅で席から立ち上がって、何も言わずに道を譲ってもらう人

(たしかに立ち上がれば、降りることは察せられる)

 

何十人も乗り合わせている電車という空間で、暗黙の秩序にしたがってうごきを合わせる人と人

 

電車通学をやめて2年になるわたしは、

電車という空間内の人の近さ、

お互いがお互いに侵食し合う頻度に、

もはや驚かずにはいられなかった。

 

しかも、みんな何も見ていないような目だ。

 

みんな何かに耐えている

堪えている

何かを我慢している

押さえつけている

 

この1年間、いや、その前の1年間も含め、「なにもできなかった気がする」と後悔の気持ちに苛まれていたわたしは、周りの人の「堪える」空気感に直接肌を刺激されて無視できなかった。

 

シンパシーを感じてしまったのかもしれない。

自分の「堪える」心と、

周りの見ず知らずの人たちの「堪えていそう」な目と肩に

 

どうしてみんなこんなに何かを我慢しているんだろう

楽しくない楽しくない

どうしてこんなにお先真っ暗なんだろう

 

大きな夢を語る人より、現実的な未来を見る人の方が良しとされるのは、どうしてなんだろう

 

大きな夢を持っていちゃ、ダメなのかな

 

みんな諦めたように日本の未来を話す

「もう仕方ないよね」「きっと無理だよね」

どうして自ら暗い未来しか見ようとしないんだろう

逆に

ほとんどの人が暗い未来しか見ようとなんて思えない、そんな社会にだれがしてしまったんだろう

 

混み合う電車で、肩が触れそうな距離にいる人から沈んだ空気が流れ込んできて、目頭が熱くならずにはいられなかった。

「今日はじぶんが作る側になりたい気分だから、映画観に行かなくていいや」

今日は「花束みたいな恋をした」を観に行くつもりだった。

 

でも、昨日、庵野秀明監督のドキュメンタリーを見て、

「わたしも”もの”を作りたい!」と思ってしまったから、

人の創作物を取り込むのは、今日はやめよう。

 

はじめてそういう理由で映画を観るのをやめた。

「NHKプロフェッショナル 庵野秀明」を見て、私はマンガを描こうと思う。

「シン・エヴァンゲリオン劇場版」

「プロフェッショナル 仕事の流儀 庵野秀明

「よい子のれきしアニメ おおきなカブ(株)」

https://youtu.be/uqeU5a6YgCs

 

これら3つを観た。

 

私はアニメ版はぜんぶ見れていないし、序破Qもうろ覚えだったので、解説まとめサイトをざっと読んだだけだ。

 

それでも、この作品にかけた、カラーという株式会社の熱量に泣けてしまった。

あのシンジ君が、最後は自分で戦うことを決めたから、私もがんばろうと思えましたよ。

なんとかこの大きなカブを、食べる人の前に引っ張り上げてくれた、監督とスタッフのみなさんと周囲で支えた人たち、ありがとうございます。

 

あと、庵野秀明監督が、血を流しながら映画を作っている様子をみて、
人間ってここまで限界に追い込まれてなお頑張れるんだなと、ほっとしたというか、安心したというか、私の気持ちに手を添えてもらった気がした。

 

私も”もの”を作りたいと思った。

血を流して、自分の頭の中にあるものを表現するところからスタートして、自分の外にあるものにも手を貸してもらって、作品を作ってみたいと思った。

 

「欠けているものの方が、おもしろい」

その通りだと思う。

どんなに八方美人に見える人でも、こちらからは見えない裏側の隅の隅には、ドロドロしたものがあるはずだと思う。

そこにこそ、人の魅力はあると思う。

 

作品は、作者の二十面相的な部分の、ある一面を取り出し、キャラクターにのせることでおもしろくなるものだとずっと思っていた。

ただ、それはグループワークであるアニメーションや映画の現場ではすこし違うのだとわかった。

二十面相で絶対的な作り手1人に、キャラクターの生み所をすべて頼ってしまうと、その人の脳内しか投影されず、庵野曰「おもしろくなくなって」しまう。

 

ただ、やはりマンガという孤独な世界では、作者の二十面相的な部分が正直に作品に反映されるものだと思う。

ある偏った一面的な作者の考えが、1人のキャラクターの核となり、この世に生を授かる。

作者1人から5人、10人と、新たな人格が生まれる。

そこにこそ、孤独なマンガの世界のおもしろさがあるんじゃないかと、やはり思う。

 

私もマンガを描いてみたい。

私という人間の限界を、紙の上に落とし込んで、現実世界に表現してみたい。

抽象物でしかない想像上のものを、実体化してみたい。

 

その”作る”という作業には、これまで経験したことのない類の苦しさがあるのだろうと期待する。

人生はずっと走り続けなきゃならないマラソンだ

「人生はずっと走り続けなきゃならないマラソンだ。

走り続けられないやつは、坂道からどんどん落ちていく。」

 

中1のときの担任が言っていた言葉だ。

当時はあまりピンときていなかったなりに、「中学生に言うにはなんて重い言葉だろう」と感じて、やけに記憶に刻み込まれた。

 

大学3年生になるまで成長して初めて、この言葉が自分のこととして実感される。

 

私は将来、アフリカのコンゴ民主でまちづくりの仕事をしたい。

そのために、南アフリカかどこか、アフリカ地域の大学院に進学したいと考えている。

同じく海外の大学院に進学しようと考えているらしい先輩に聞いてみた。

「どこの大学院に行きたいんですか?」

目を逸らしながら「んーとりあえずアメリカは嫌だから」

「開発系だとやっぱりイギリスかフランスが有名だから、そこかな」

「まだちゃんと決めてないけど」

「教授とコンタクト取れたら、そこかな」

「そのためにも、まずは卒業論文を良いもの書かないと笑」

あ、思いの外ちゃんと決めてないんだなと察した。

そんなものか、と。

 

でも私だってどうだ?

先輩よりよっぽど、プランも実力も、伴ってない。

 

私って、やる気だすの下手くそだな。

このままだとやりたくもないデスクワークを日本の労働環境に苦しみながらやることになる。

やっぱり、やりたい仕事をちゃんとやりたいな。

 

そのためにやらなきゃならない事なんて、もう何回も考えたから、わかりきってる。

英語とフランス語を身につけよう。

都市計画の勉強をしよう。

留学準備を進めよう。

アフリカ出身の人とたくさんコミュニケーションをとろう。

 

やらなきゃならない事は案外シンプルなんだ。

言語習得も、勉強も、地道な努力が必要なものだから、おっくうに感じてしまう。

 

でも、そろそろ、腰を上げないと、どこにも行けないぞ。

 

無力感いっぱいの帰り道にお金つかうの空しくなるだけだからやめな

3週間ぶりぐらいにインターンに行ってきた。

片道2時間、¥1500

なんとなく足が重い。

 

「午前中はこれ、午後はこれをやろう」と指示をもらう。

 

でも、結局午前中分の仕事はおわらず、午後もプラス1時間半ぐらい時間を使った。

午後の仕事も結局すべては終わらず。

 

帰り際、「今日はぜんぜん仕事が終わらず申し訳ありませんでした」と頭を下げずにはいられなかった。

 

来週も伺う約束を取り付けて、外に出る。

(来週も来て、なにができるんだろう)となんとなく考える。

なんとなく足が重い。いや、重いのは心かな?

 

事務所を出たのは19時。

胃と心に引っ張られてか、足がなんとなく途中駅で電車を降りる。

 

閉店間際のアニメイトに駆け込んで、買う予定だったマンガを買う。

5分ぐらい道端でグーグルマップを見て、ラーメン屋を選ぶ。

(近いところに適当に入ればいいのに)

適当に選んで味と値段で後悔したくない人間なのだ。

ラーメンはおいしかった。

でも、無料だったから大盛りにすればよかった。

 

ようやく帰る。

夜の池袋はあいかわらずの治安だな。

客引きを横目にみながらホームへ。

 

満員電車

みんなスマホに目を落としている。

無気力な人が車内の100%を占めていると、インターン帰りだから勉強した方がいい私のやる気もそがれる。

Twitterをみる。何ときなしに。

 

2時間かけて家に着いた頃にはお腹が空いている。

結局消えてない無力感、喪失感、空っぽ感

 

頭がかゆくて掻くと、赤い塊が落ちてくる。

肌がかゆい。

目が赤い。

肩がこってる。

 

ばかだね。

インスタに何をのせても何も解決しないのに

どうしてまたストーリーに適当なことアップしちゃうんだろう

そういうことするのがダサい

 

なにをしたら解決するんだろう

どんな行動をとったら解決する?

 

いやまあ、地道に勉強を続けることだけだと思うんだけどね、結局答えは。

 

つまんないね

 

アラスカ行きたいな

「今日の夕飯」って言いながらアザラシ狩ってるとこ写真に撮りたい

そんでまたインスタにアップする画面を想像しているんだから、しゃあない

 

つまんな~い

 

もうやめよ

ネガティブなことを変にポジティブに振る舞うの、やめよ

【ネタバレ感想】「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」最後は自分で決断したシンジ君

庵野秀明監督の大作「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」を観てきた。

 

155分間、脳神経をフル稼働して鑑賞したので、上映終了後は頭がガンガン痛かった。

色彩、フラッシュ、突然の場面転換、爆音、読み上げられるコマンド、そして何より次々と明らかにされる複雑なストーリー

頭が、もう、疲れました

 

でも、その頭の痛みに見合う納得感と満足感だった。

 

本作を未鑑賞の人に、内容をイチから説明しろと言われたら、それはできないと言うしかないほど、詳細はまっっったくわかってない。

(なんか…とりあえずインパクトがいろいろあったんですよね…)

でも、ふしぎとすべてが腑に落ちている。

 

シンジ君がなにを考えたのか、なぜ決断したのか。

アスカと、レイと、カヲル君はなぜ存在したのか。

マリはなぜ新劇場版に必要だったのか。

 

ストーリーが複雑なわりに、1つ1つ親切に説明を加えてくれたから、現在地を確認しながら迷子にならずに鑑賞しきることができたように思う。

 

まったく不完全燃焼ではない。

 

「シン・エヴァンゲリオン」の集大成にふさわしい素晴らしい描き切りっぷりだったと思う。

 

155分間が、この一連の作品の最後には必要だった。

 

鑑賞中は、前半の第三村での平和な生活の時間が長すぎないか~~??と感じていたが、

そのたっぷりの時間の流れが、アヤナミレイ(仮称)には必要だった。

彼女の最期をみれば、村の人と汗水垂らした仕事や、赤ちゃんのお守り、委員長に教えてもらったことすべてが、彼女の「生」に新しい色を与えたことがまざまざとわかる。

さらに、後半でシンジ君を苦しませまいとした彼女の行動も、あの第三村での人との交わりがあったからこそだろう。

アヤナミレイ(仮称)が、彼女らしく、彼女の人生を生き切ってくれたように思う。

 

ニコ・ロビン赤司征十郎もそうだが、どうしてこうも、ガードの硬かった人がほころび笑い、人間臭く生きる様子は、魅力的なんだろうか。

綾波レイがすごく好きになった。

 

アスカの苦悩も、存外わたしに身近なものだった。

 

すごく強い彼女だった。いつも強い姿勢を崩さない彼女だった。

 

しかし、彼女の核はいたってシンプルだった。

「誰かに頭をなでてもらいたい」

人間の承認欲求や、誰かに愛されたいという想いは、いろいろな形で表出する。

アスカの場合は、「強さ」となって現れた。

彼女は魂になってしまったが、相田ケンスケにもう一度会ってほしい。

いや、相田ケンスケに会えたからこそ、魂になったのか。

とにかく、迷子にならず、頭をなでてくれる人のもとに、もう一度帰ってほしい。

 

カヲル君の愛もいたって純粋に、シンジ君に向けられていた。随分と長いあいだ。

渚司令であり、第一の使徒であり、第十三の使徒であり、円環の中にいた彼は、結局何者なのかよくわからないが、とにかくシンジ君を見守る愛だけはハッキリと私の目にも映った。

さまざまな肩書を持つカヲル君は、最後は夏のみどりの中へと歩いて消えていった。

役目を負え、楽になれるのならそれでよいと思う。

 

マリもまた、シンジ君に深い愛をもつ女性だった。

登場時は「誰このクセ強めのメガネ女子。あんま好きじゃない」とまで思っていてごめん。

今はめっちゃ好き。

彼女こそが、シンジ君が一歩を踏み出し、エヴァンゲリオンシリーズが終わるために必要な人間だった。

彼女が「どこにいても迎えに行くよ」と言い切り、手を差し伸べ、シンジ君の手をしっかりと取る様子は、実に象徴的だ。

差し出してくれる手があるからこそ、シンジ君はもう一歩進めるのだ。

 

レイに助けてもらい、アスカに背中を押され、カヲル君に寄り添ってもらって、マリに手をとってもらい、シンジ君は新しい未来へ「行こう」と進める。

 

ただ、もちろん、最後に「進もう」という決断をしたのは碇シンジ君自身だ。

助けてもらい、背中を押してもらい、寄り添ってもらい、手を差し伸べてもらっても、彼自身の足が動かなければ結局どこにも行けない。

 

シンジ君は基本的に動けない時間が長い男の子だった。

とにかく悩む。泣く。じっとする。イヤホンをして外界を遮断する。泣く。拒絶する。

その時間が長い子だった。

 

でも、相田ケンスケも言っていた通り、碇シンジにはその時間が必要なのだ。

「泣いて救われるのは自分しかいない」とのちにシンジ君は自ら言っていた。

 

逆に言えば、自分が救われるには、泣く時間だって必要なのだ。

まあシンジ君は後ろ向きの時間はあまりにも長いような気もするが。

それでもいいのだ。

わたしだって泣くときはめちゃくちゃ泣く。もういいだろってぐらい泣く。

泣かないと先に進めないのだ。

そういうものだ、わたしたちは。

 

先に一歩進むのに、ものすごく長い時間が必要だ。

大量の涙も流さなきゃならない。

さらには、誰かに助けてもらい、背中を押してもらい、寄り添ってもらい、手を差し伸べてもらうことも必要だ。

 

それでもいいから一歩先へ「ゆく」のだ。

 

まわりから向けられる愛に怒鳴り返すことしかできなかったシンジ君が、その愛1つ1つに向き合い、対話し、浄化した。

そして、自分の中にあった母親の愛に気づくことができ、長年目をそらし続けていた父さんの愛とも向き合うことができた。

 

忘れられない愛

 

"It's only love"

宇多田ヒカルの歌がものすごく染みる。

 

正直、鑑賞前にすでに50回は"One last kiss"と"Beautiful world"は聴いていた。

今回は、劇場で宇多田ヒカルの歌を聞きたさもあった。

でも、あそこまで、染みるとは。

一歩踏み出した青空の下のシンジ君のカットにかかりながら流れ出し、エンドロールすべてを見送った宇多田ヒカルの歌。

 

エヴァンゲリオンと完全にシンクロしているわけではなく普遍的に言えることを歌っているのだが、エヴァの本質を見事打ち抜いているかんじが気持ちいい。

 

もう~~~満足しかないのがおわかりいただけただろうか。

大変、胃にストンと落ちている。

 

あとは、NHKのプロフェッショナルの流儀を見て、シン・エヴァンゲリオンは完全消化されるかな。

ナディアも観よう。

 

ここまで描き切った庵野秀明監督と、エンドロールに名を連ねたすべてのスタッフと関係者に心から拍手を送りたい。

ありがとうございました。

世の中にはいろんな人間がいるな

昨日今日と2日間、イベント運営のバイトをやってきた。

2日間ほとんど立ちっぱなしだったので足がバキバキだ。

 

イベント運営にはいろいろな人が来る。

住んでいる場所も、年代も、普段の職業も、まったくバラバラの人たちと協力して仕事をする。

ほとんど同級生だと思って話していた人が、5,6つも年上だったのには驚いた。

6歳だろうが7歳だろうが離れていても、おなじ苦労を共有していると仲良くなれるものだ。

 

ご一緒した教育機関の人たちも全国各地から集まっていた。

研究者らしくなく、気さくな方ばかりだった。

別れ際にかけてくれた「大学生活たのしんで」という一声が、頭から離れない。

 

途中で地震がきた。

震源地になった地域出身の高校生たちが、泣き出してしまった。

すぐ近くにいたわたしは、とりあえずその子の横に座った。

「何かほしいものはない?」

スマホが、ほしい」と途切れ途切れに答えてくれた。

 

 

彼女はわたしがスマホのことを責任者に伝えてくれることを期待して言ったはずだ。

しかし、実際にはわたしが言うタイミングを逃し、彼女が涙ぐみながら自分自身で責任者に伝えていた。

わたしには何もできなかった。

ただ、彼女たちの傍に立っていることしかできなかった。

「何かできる」というのは難しいことなんだと痛感した。

 

イベントは、地震のせいで延長しながらも、なんとか無事に終わった。

この日のために必死に準備をしてきた高校生たちが、無事に大会が終わり自然と拍手をする様子に純粋に感動した。

このイベントのために何百日も準備をしてきたんだ。

わたしが昨日今日で準備したこのイベントのために、高校生たちは何日も前からエネルギーを傾けてきたんだ。

 

イベントを運営する仕事はかなり地味でも、それを実際に「体験する」参加者にとっては忘れられない思い出になり得るのだ。

 

イベント運営バイトにハマりそうだなあ。