「自分で努力して手に入れた美は力強い」
ルーク・ハントの言葉
「生まれつき持つ美はもちろん美しい。
しかし、努力して手に入れた美は力強い。」
ゼミの卒業生を送り出す飲み会があった。
流れるような黒髪をもつ、輪郭のきれいな先輩がいた。
性格のほがらかさが顔に出ている先輩がいた。
内面が外観の美しさもつくり出し、その美は美しいというより力強い。
ルーク・ハントの言葉が、じわじわと、実感できている。
渡辺直美も、力強い美しさがあると思う。
力強い美しさなら、わたしも手に入れたい。
GPAは4超えるけど、実際自分にできることってなんだ?
奨学金に申し込むために、先生に推薦書を書いてもらう必要があった。
成績は問題ない。
成績評価基準のGPAは、4を超えて最高水準に近い。
飲み会で「GPA4以上のやつ!」とコールがかかるような感じのレベルだ(?)
じゃあ、成績と「今までの取り組み」を伝えれば、先生からもきっと「良い」推薦書をもらえるはずだ。
そう思った。
ここ1年の「取り組み」を書き出してみた。
これしか書けない。
というか、これ、私じゃなくても誰でも同じことを書けるな?
地味につらい。
数字上の評価が良いだけに、自分の中身が伴っていないことが際立って、突きつけられてつらい。
まわりの友達や先輩や先生は、たくさん自分のことをほめてくれる。
「ここが良い」
「ここがすごい」
「こういうところを尊敬してる」
入学当初、私の話を聞きたいと言ってわざわざ来た友達は、トビタテ奨学生に決まり、留学の予定を控えている。
彼女はインターンも、研究も、ボランティアも、どん欲に頑張っている。
彼女にできることはこの2年で着実に増えているはずだ。
その一方で、私にできることは、なにか、増えたか?
周りがかけてくれる褒め言葉は、私の1番上っ面の表層ではねかえされている気がする。
私の中身には、すこしもタッチしていない。
私の、私だけが知っている薄い中身には、これっぽっちも触れていないから、そんなキラキラしたポジティブな「褒め」言葉ばかりかけてくれるんだ。
本当の私はなにもできないのに。
できないことばかりなのに。
できることを増やすための努力なんて、本当にできない人間なのに。
私は1年先のことを考えて、行動することなんて苦手だ。
1年先の自分が考えていることや、やりたいことなんて、わかるわけがない。
1年後の自分がやりたくないことを、わざわざ準備したくない。
自分が気分屋なことを知っている。
好きなことしかやりたくない自分を知っている。
苦手なことはトンとできない自分を知っている。
明日やらなきゃならないことと、やりたいことを考えるので、わりと精一杯なんだ。
そして、それが悪いとあまり思っていない。
自分は自分のことが大好きだ。
友だちや先輩たちも褒めてくれる。
好いてもらえているという自覚もある。
自分も、友達も、私のことを叱ってくれない。
「いいね」と言うばかりで、両親や高校の担任の先生のように、私のダメなところをちゃんと見通して、指摘してくれる人がいない。
参ったあ、ダメだあ
私これダメなやつだあ
夢が遠すぎる
遠すぎる夢に向けて、プランを立てることもできない私だ。
愛っていいね!ぜんぜん知らんけど
今朝、7時半にアラームをかけていたけど8時半に目が覚めた。
昨晩、布団の中でBL漫画を読んで寝落ちたなごりで、べつの本も読みたくなった。
「ジャッカス」スカーレット・ベリ子
忘れかけてたけど高校時代って自由だったな
押入れの中の段ボール箱をあさる。
読みたいのは、エッチもいいけど、心と心で恋愛してるやつ。
「果ての荒野でバカンスを」赤河左岸
うしろ2つの短編は言葉とロケーションがロマンティックでよい
「よなよなもしもし」丸顔めめ
キンモクセイがキーワードとして出てくる話はなんでこんなによいんだろう
「初恋、カタルシス。」鳩川ぬこ
これが、今朝、いちばん、私の心が読みたかった、話です
性的な行為がこわくても、恋愛できる
人を愛して、人に愛されるっていう、愛の相互のやりとりだけで、人はこんなに幸せそうな顔ができるんだなとしみじみ思う
わたしは最近さびしかった
友だちや家族からもらえる愛とは別の、恋人からしかもらえない愛がたしかにある
今、恋人がいないから、どうしても心に不足している部分があると感じて、さびしかった
自分のさびしさをマンガの中に転嫁した
そしたら、キャラクターたちの幸せがジワジワわたしに移ってきて、恋人いなくてもいいかーと心がなごやかになった。
情けなくもないし、むなしくもない。
「愛がない」とないものねだりして、心がザワザワし続けるより、よっぽどマンガの力を借りて疑似的に落ち着かせたほうが健康的だ。
BLは、とくに人と人がどうやって心を近づけて、愛の相互のやりとりを成り立たせるかを丁寧に描いていると思う。
実際のわたしたちは、人とのやりとりを一言一句丁寧に文字に起こして、「これはどういう気持ちで言った」とか反復できない。
一言一言、リアルタイムで迷子になりながら言ってる。
迷子になりすぎてよくわからなくなったとき、全部言葉と絵に残しているマンガを読むと、ざらついたものがなだらかに均される気がする。
これでよい。また今日から一つ一つ、人と話し合えばいいんじゃないかな。
都市計画系ゼミでまちあるき
今日、所属するゼミでまちあるきをした。
はじめてのフィールドワークだ。
普段目にする東京の街並みは、なんの変哲もないように見えた。
しかし、今日は、東京の街がずいぶんと”深く”見えた。
あらかじめ本を読み、古地図を見て、江戸のまちのつくりを頭に入れておいただけで見えるものがまったく違った。
江戸時代に大名屋敷が立ち並んでいた地区、町人地だった地区、江戸から現在にかけて都市が近代化した手順、特定の建築家の設計に現れる特徴、など
江戸・東京について、あらかじめ知ることができる知識は山のようにあった。
錯視で窓がデザインされた先進的なビルだ。
しかし、おかしなことに、手前には低層の小さな建物が数軒並んでいる。
これは「おかしなこと」なのだ。
先生の解説によれば、手前の建物はもともとこの地にあったが、再開発が行われるときに立ち退きを拒否したのだろうということだ。
だから、うしろの中央のビルと、左右に続くすべてのビルは、横一列に並んでいる。
新しいビルらが端をそろえる直線が、再開発後の新しい道路と私有地の境目のはずなのだ。
麻布のこの場所なら売ってしまえば高かったろうものを、昔からこの場所に暮らす人々は離れることを断った。
住民の想いが、無機質な建物の並びから読み取ることができる。
読み取ることができるのも、研究で蓄えてきた知識があり、その知識を実際の都市の中で実践してきた経験があるからこそ、なせる業だということはまちがいない。
先生や先輩たちが提供してくれる知識が、わたしの目に見えるまちの様子を一変させてくれた。
いままでは呼吸など感じられなかった建物や庭、敷地の足元にねむる、何十年あるいは何百年のあいだに人が傾注してきたエネルギーがうっすらと透けて見えるようだった。
これが知識というものか
知識の形が目に見えたようだった。
これは何と名のつく感情か教えてほしい
機会があり、80分の持ち時間で発表をすることになった。
もちろんパワポをつかった口頭発表だけでなく、参加者とのディスカッションなどもふくめこの時間なのだが。
しかし、こんなにも長い時間の発表をつくったことはないので、3つ上の先輩にアドバイスをいただくことにした。
同期の友人も一緒に3人で打ち合わせをした。
先輩はかなり優秀な経歴をもっている方なので、実際にアドバイスの内容も目から鱗のことばかりだった。
しかし、正直に言うと、如何せん漠然なことが多く、内容を理解するのに苦労した。
わたしの脳内はグルグルだった。
筋の通ったまともなことを言っているという表面のことはわかるのだが、その表皮をむいた奥にある核がイマイチつかめない。
結局どういう意味だ?
何度だって聞き返す。
意味がわかるところは自分の言葉で言い直し、確認する。
しかし、肝心のところがわからない。
そして、衝撃だった。
同期はわりと理解できているようだった。
先輩が言っていることを踏まえ、彼女が議論を広げる。
先輩は「その視点大事だね」と受ける。
なぜ、するどい指摘をできるほど理解できているのか。
彼女の理解度とわたしの理解度には明白な差があった。
わたしが意見を言い、「わかりますか?」と尋ねたとき
「悩んでいることはわかる(笑)」と返された。
まともな意見を言えてないってことだ…
帰り際に「大変そうだね」とも言われた。
わたしがしっかりついていけていないことを察したのだろう。
さらに愕然としたのは、先輩との打ち合わせ後に、同期と2人で発表資料を作り直しているときだ。
先輩が説明してくれたことを、もう一度同期に説明させてしまった。
わかったつもりでいたが、わかっていなかったのだ。
彼女が言うことに「うん」「うん」と相づちを打ち、資料にかきこむ。
ウーーーーン
これはどうしたら克服できるんだ?
知識量の話というより、理論や方法論を知っているか知らないかの差だったように思う。
じゃあ哲学の本や考え方の本を読めば克服できて、2人に並べるのかというとそういうわけでもない気がする。
まあなかなか目を向けたくない部分なんだと思うが、
たぶん
わかろうとしてなかったんだろうな。
考えることをやめていたんだろう。
どうしてだ?という何故の疑問を持つことを放棄していたんじゃないか。
だから、2人が話す理論を、「どうしてそうなるんだ?」と考えることを避けていた気がする。
思えばずっとそうだ。
なんでだ?と考えて根本から理解することを放棄しがちな気がする。
「彼女がそう言っているならそうなんだろう。よくわからないけど、」
これが癖づいていた結果、ほんとうに大事な場面でわたしは理論的な思考をストップさせてしまった、のではないかな?
ウーーーーーン
ここまで「わからない」ことって初めてだ。
悔しい?嫉妬?はいぼくかん?
イマイチしっくりこないけど…
とにかく真っ正面から理解すべきことは、
わたしと彼女のあいだには差があったということだ。
その差を埋めるために、なぜ?と考える訓練をした方がいいと思うし、
本ももっと読むべきかな。
…よく!!!わかんないけど!!きっと!!おそらく!!
映画「音楽」体が踊りだすし、良すぎて漏らすかと思った
これね、U-NEXTでポチりましたよ。
70分という短さだから、夕飯食べながらすぐ見終えられるなと思って。
そしたらどっこい。
箸が進まねえ進まねえ。
おもしろすぎないか。あと、PCで見ると音量小さすぎないか?
いそいそと食器を片付け、テーブルを部屋の端に寄せ、テレビにミラーリングして、毛布にくるまり、なるべく映画館っぽくなるよう画面に近寄り、集中度マックスで再生。
70分の手描きアニメーション映画だからと侮るなかれ。
否
70分すべてを手で4万枚描いたアニメーション作品だぞ
なるほど、人が実写でなく、アニメーションで作品を創りたいと思う理由の1つは、作品の中で、こんなにも多様な”線”と”色”を表現することができるからなんだ、と気がついた。
鉛筆、水彩、マーカー
モノクロ、赤、青、緑、黄色、白
淡々とした動き、すばやい動き、ゆっくり時間が流れる動き
考え得るすべての表現技法を使い分けて、各キャラクターが奏でる”音楽”の個性をみごとに視覚的に映し出してみせた。
音ってこんな風に、”見える”よね。
はじめて出会う音楽に衝撃を受けたときは、こういうイメージに包まれるよね。
わかるよ、はじめてサカナクションのライブに参戦したとき、私はまさに、主人公の音楽に衝撃を受けた森田君とおなじ世界にいたよ。
音楽を通して見える世界に共感しかなかった。
すごい、私の脳内が、今、この映画の中に”ある”。
ラストのフェスシーンなんて、あまりよく覚えてない。
大好きなバンドのライブを見たときってだいたいそうだろ?
覚えてないんだ、時間があっという間に過ぎてしまって。
ついでに言うとね、私は今日この映画を観たことを運命だとおもった。
”いつか”ドラムをやってみたいと”ずっと”思っていた。
でも、ドラムなんて高いし揃えるの大変だし、むりだなあって思ってた。
今日、お昼ご飯を食べながら、だいすきなロックバンド、the clashのドキュメンタリーを観た。
しぬほどカッコいい。
そして、私はやっぱりドラムの音が一番よく”聴こえる”。
物は試しとメルカリで「ドラム」と検索。
なんと、他サイトなどと比べても格安の新品電子ドラムセットがつい3時間前に売り出されている。
これは…買えと神が言っているのか…?
いやいや、お金がないんだ、早まるな。
夜、ごはんのお供をU-NEXTで探していたら…
冒頭にもどる。
主人公ケンジの言葉がずしーんと響いたよ。
バンドをやろうと仲間2人に言うと、
2人は「楽器なんてやったことねえよ」という。
ケンジの答えをドキドキして待った。
「だから、良いんだろ」
!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
だから!!!!!良いよな!!!!!!!!
the clashのドラムの音が聴こえた。
格安の電子ドラムセットが売り出された。
「音楽」を観た。
もうこれは…はじめろと言ってるな?
だれかが、わたしに、音楽を。