赤司征十郎が好きなオタクは「ゴッドファーザー」が高確率で好き【ネタバレ感想】

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えぐ。

黒子のバスケ」の赤司征十郎がすきな人間としては、めちゃくちゃすきだった。

 

3時間に渡るこの作品の中でどこが好きだったかと訊かれればいくつでも挙げられるけど、

一に俳優

二に映像

三に音楽

四にセリフ

五六飛ばして

まあ全部好き

 

映画としてこれほど完璧なものあるか?

どこを観てもドキドキした。

 

私がこの映画を観たきっかけは、ゴッドファーザーの場面写真を参考に、赤司征十郎に置き換えてデッサンしている人を見かけたからだ。

いや急にオタクという感じだけど、とにかく私は赤司征十郎が「人に命じて私に背いた兄を殺させました」とか言ってるのを見て、残酷冷徹なマフィアが見れるのだろうかと期待してU-NEXTで映画をポチリした。

 

そしたらどうだい。

 

残酷冷徹は確かにそうだが、零下50度の氷のベールの内側には、冬の床暖房のようにじんわりと温かいファミリーへの愛が透けて見えていた。

 

これが!!マフィア!!!!

これが!!ドン・コルレオーネ!!!!!!!

ヴィトーもマイケルもどちらも好きです。

 

ヴィトーは、革椅子に腰かけたまま殺しも脅しもするが、

カタギだった息子が殺しをすれば顔をゆがめるし、

息子の死体を前にすれば目を赤くさせる

孫を喜ばすために唇の裏にみかんの皮だって入れる(「これ見ていいのかな??」ってなるぐらいマフィアのドンから離れておじいちゃんの顔になっていて愛しい)

結:たいへん人間的だった。

タキシードをビシッと着こなしながらも、人づきあいに半ば疲れたような顔を見せるマーロン・ブランドは20歳の女の心臓もドキドキさせて仕方がなかった。マジカッコイイ

 

一方、はじめはカタギだったマイケルはどうだい。

初めて人を殺すとき、ヴヴーーーンという耳鳴りがしていた。

同時にあそこで彼の人生のレールがガチャンと切り替わる音がした。

結婚までした美しい女性を自分の代わりに誤って殺され、彼は自分の立場を思い知っただろう。

彼が愛を向ける”ファミリー”は、けっしてその”血”で定義づけられるものではなかった。

”行い”で彼は”ファミリー”かどうかを判断した。

”ファミリー”に忠誠を誓う行いをする者に対してのみ、ファミリーとしての愛を向けた。

間違いなく彼の核に”ファミリーへの愛”はあるのだが…かなり排他的だと思う。

 

映画が進むにつて、マイケルの顔はどんどん変わっていった。

ラスト、ケイに「Is it true?」と訊かれ

「仕事に関して質問に答えるのはこの一回きりだ」とまで前置きし

マイケルはケイの目を見て「No」と噓をついた。

 

私はあそこまで真に迫った、”本当のことらしい”噓を今まで聞いたことも見たこともない。

 

アル・パチーノ、何て俳優だ。

俳優としてマイケルという虚構を演じるという1つ目の嘘。

そして、マイケルとして「No」と答える2つ目の嘘。

二重の嘘をあそこまで”本当らしく”言えるものか人間は。

ケイがマイケルの「No」を信じてしまうことに説得力がありすぎた。

だって、嘘だとわかっている観客も思わず信じてしまいそうになるもの。

 

いや素晴らしい。本当に素晴らしい。

1時間前に観終わったばかりだが、すでにもう一度観たい。

 

これが”映画”でなくて何であろうか。

「進撃の巨人」と「ドグラ・マグラ」は同時に読むもんじゃない

進撃の巨人」26巻まで現在進行形で読破中だ。

いやまったく残酷な世界だ。

漫画の主人公が見ている先にある未来がこんなにも希望のないマックラなこと初めてだ。

あの世界に生きている人類はよく口にする。

「生きている限り」「私はこの世に生まれたのだから」

生きたいが為に人は人を殺すことも厭わぬのだな。

戦争も起こすし、戦場に銃を持たせた人を送りもする。

「生」がなぜそこまで人を引きつけるのか。

正木敬之は「胎児の夢」で、人は胎の中で、先祖が46億年前からその身に浴びてきた一切合切の経験を映画のように思い出し、先祖の記憶を細胞に宿してこの世に生を受けるのだと。

否、正確には夢野久作が「ドグラ・マグラ」の中でそう述べた。

実に単純明快。

人はその記憶に、「生きねばならない」責任を負っている。

46億年前から、原生生物の形の時代から、先祖は自然の猛威に耐え、天敵の魔の手を掻い潜り、あらゆる艱難辛苦に堪えて、今日の私の身まで生を繋いできた。

ここに「生きねば」という気持ちを感じずして何であろうか。

人がとにかく自らのあらゆる残酷極まりない非人道的な行動を、それに覆い被せるように決まって口にする言葉

「生きたいんだ」

人間はそれしか考えぬ。

日本人はどうして木造建築を捨ててしまおうとするんだろう「日本木造遺産」を読んで

「日本木造遺産 千年の建築を旅する」著:藤森照信、藤塚光政


私は日本の木造建築が好きだ、ものすごく。


こんなに複雑な構造をしつつ、豊かな表情をみせる建物を、木材だけで人が造ったのかと感動する。


とくに組物がすきだ。


構造を勉強する前は、ただ美しい飾りだなと思って見ていた。

しかし、その複雑な構造の裏に、建物を支えるという明確な目的があり、お飾りではなくれっきとした“仕事”をしていたのだ。

それを知った後は、さらに組物が美しく見えるようになった。


しかし、その技術は、材となる木が育ち、造り手が育ち、需要があるからこそ継承されるのだ。

今の日本では、そのどれもが先細りだ。


まだこれっぽちの技術も身につけていない私がなんと言えることではないが、私は木造の寺社が創り出す空間の圧倒するような澄んだ空気がすきだ。

私は将来の仕事場を海外に求め、正直、日本文化よりも海外の暮らしにもつ興味の方が強い。

しかし、それでも

私が海外の地で恋しく思うのは、日本の寺社でしか感じられないあの空気だ。

あの空気が日本に存在している限り、私は日本人として日本に惹かれるのだろう。

「人の1番の発明は社会である」進撃の巨人21巻を読んで

進撃の巨人21巻を読んで私の脳内はフル稼働だ。

ここまで思考を活性化させる創作世界があるだろうか

少なくとも私の短い人生の中では、これほどまでに現実世界に問いを投げかける創作物に出会ったことはなかった。


21巻で明らかになったことは様々にある。


たとえ「王家の血族」であっても社会の中で少数派であれば差別される。

もっとも大事なことは、その人が誰かではない。

数が多いか、少ないかだ。


そして、多数派が「どの」思想をもち、「どの」歴史を継承したいと考えるかが、その社会のルールを決定づける。


たとえ高潔な王家の血族であっても彼らが少数派であり、多数派と対立する存在であるならば迫害は避けられない。

ある社会ではピラミッドの頂点である者が、別の社会ではピラミッドの最底辺であることがあり得るのだ。

ある社会では多数派の者たちが、別の社会では少数派であり差別されることがあり得るのだ。

社会が、どこで線を引くかにすべてがかかっている。


これはもう、人間の1番の発明は、羅針盤でも活版印刷でも蒸気動力でもなく、社会と言えるのではないか?

少なくとも私にはそう思える。


アフリカ大陸の現在の国々も、旧宗主国によって適当に引かれた国境線が、適当な社会を創り出し、同じ社会に押し込められてしまったからこその問題が次々と起こっている。



人間は生来クズな生き物だと思う。

怠惰で、流されやすく、アニが言った通りだ。


では信じるべきは性悪説なのか?


いや、人間の本質は悪だとは言えないが、一方善だとも言えない。


人間が善であるか、悪であるかを左右するのは社会の仕組みだ。

社会の仕組みが人間に、本能に従って「間違った」行いをさせ続けるし「正しい」行いに変えさせることあるだろう。


コンゴ民主共和国の歴代の大統領たちはなぜワイロしか肥さないのだ?

どんな仕組みが歴代の高官たちをポケットマネーの増植に固執させるのだ?

どんな仕組みが人間をそうさせる?


気になる

気になって仕方がない


進撃の巨人諫山創という1人の人間が考え出した創作世界に過ぎないが、ときに人の創作世界は現実に当てはめることのできる示唆を与えることが絶対にあると私は信じている。


このセリフは現実世界のあれに当てはまるではないか?

この思想は、この行動は、この信念は、

現実世界ではどんな風に現れている?


漫画と哲学書は本質的に同じものだ。

人間の思想を表現し、他の人間に伝えている。

あとは受け取る者にかかっている。

受け取った者がどう考え再構成し、何にどう当てはめるか。


私が受け取ったものはこうだ。


社会の仕組み次第で人は善にも悪にもなる。


変えるなら社会の仕組みだ。


人に決まった「形」なんてない。


すべては社会のあり方にかかっている。


そしてもっとも大事なことは、私がこの社会の「形」をどうしたいかということだ。


「世界を変えるデザイン」の大原則

「世界を変えるデザイン」シンシア・スミス編


本編よりも、訳者である槌屋詩野さんのあとがきの方がキーメッセージなのでは?


世界の10%を占める富裕層

それ以外の90%の人に使ってもらうためのモノのデザインはどうあるべきか、なんて考えたことがあるだろうか。


全250ページを読んでシッカリ頭に焼きついた、90%の人に向けたデザインの大原則は


低価格

小型化

拡張性


このたった3つ、されど3つだ。


人が「尊厳」をもてる製品やサービスを生み出すことができるか、世界中のあらゆる働く人が。

キューブリック監督「2001年宇宙の旅」意味わからん過ぎて逆に好き

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よくわからぬ。それに尽きる。

結局よくわからぬ。

 

地球外生命体と呼ばれ恐れられ興味をかきたてた存在は何のことはない人間だった、

それで良いのか?

なぜ一人の宇宙飛行士は死んだのだ?

いや、あの広大な暗闇にまっ黄色の人間がおもちゃのようにフワフワと浮く画面は実に人間のはかなさを感じさせ好きであったのだが、しかしあの必然性はなんだったのか結局よくわからぬ。

なぜHALは間違えたのだ?なぜ宇宙船内に人間を入れることを許さなかったのだ?

明確な理由などわからぬ。

理由がわからぬからこそ宇宙に身を投げ、のれんに腕押しと構わず鬼才の行間を読もうとするのだ。それが人よ。

 

キューブリックがそう言っているように聞こえた。

 

これまで好きな映画監督などいなかったが、キューブリック監督ははじめて他の作品も観たいと私に思わせた。

【ONE PIECE再読】はじめの敵3人は「ルフィが目指すもの」の暗示

ルフィが海に出て最初に出会う敵3人

 

斧手のモーガン

道化のバギー

百計のクロ

 

モーガンは、「偉さ」こそが強さだと言った

バギーは、金ピカキラキラの宝物こそ、真の「宝物」であると言った

クロは、海軍に追われることなくお金だけ得ようと卑怯な手をつかった

 

一方

ルフィは、「この海で一番自由なやつが海賊王だ」とハッキリ言った。

「自由」なことが強いのだ。

 

ルフィは、麦わら帽子や仲間を「宝」だと何度も言っている

形のないものも宝になり得る。ロジャーが見つけたワンピースも形のある「宝」だと誰が言えるだろうか。

 

ルフィは、いつでも強者に立ちむかい「倒す」ことに命を懸けてきた。

人の信用を裏切るような卑怯な手は使わず、海軍大将にもまっすぐ拳を向ける。

 

まさか始まりの3人の敵が、すでにルフィの「目指すもの」や「信念」を暗示していたとは!

いや、逆に言えば、ルフィは初めから「一人の人間」として核が定まっていたのだ。

少年ジャンプの紙の上に載る前から、尾田栄一郎のラフノートの紙の上で、

ルフィの人間性は固く方向付けられていたのだ。

 

ルフィは核を持つからこそ、自由に動き回る。

 

人間はみな核を持てばこそ自由に強く動き回れる。