大人の世界はつまらなそう

子ども時代を輪廻転生したい。

 

言葉にすると凄まじい情けなさを感じるが、大人にならずに子どもの時代を繰り返したい。

 

なぜって?

 

子どもの頃は、一歩歩くたびに新しい発見があった。

視線を左から右に移すだけで、新鮮な事物が目に飛び込んできた。

 

道路脇の側溝に、いびつな顔のように見える穴ぼこだらけのじゃがいもが落ちていて、通りがかる度にそこにあることを確認して楽しくなっていた。

家族で出かけるときに、車の窓から見える街中の文字という文字を読んでいた。

無機質に並んだマンションの窓が、意味をもつ暗号だと思えた。

 

頭上に大きく広がる世界は、知らないものばかりで毎日毎日飽きることがなかった。

1つの「もの」や「こと」はその本質にこそ意味が感じられ、余計なことは考えなくても、その1つの「もの」や「こと」だけで素晴らしいと感じられた。

 

でも、今はどうだろう。

 

多くのことを知ったから、1つの「もの」や「こと」を見て多くのことを考えるようになった。

韓国の国旗を見て、政治上の仲の悪さを思い出すようになった。

排気ガスを見て、地球温暖化を想起するようになった。

ヒジャブを被る女性を見て、苦労しているのだろうかと思うことが増えた。

ホームレスの姿から目を逸らすようになった。

 

毎日、朝昼晩にスマホに複数のニュースが届き、それをチェックしなければ気が済まない。

Googleを開けば私へのおすすめのニュースが表示され、それが興味を引くものばかりだから困る。

 

多くのことを知るようになった。

難しいことを考えるようになった。

世界を占めるのは、「楽しいこと」より「大変なこと」の方が多い、

と思うように私は変わったのだ。

 

純粋に1つのものごとに感動できなくなっていることが、自分のことながら、自分のことだからこそ、たまらなく寂しい。

 

知識を得ることは「成長」だといえるはずだが、私はもっと本能的なことを大切に思うタチらしい。

 

ビビビッと「これはすごい!」と脳が光り輝くような体験は日常の中にはもうあまりない。

そういう体験ができるように創られた映画や舞台や音楽を、自ら主体的に選択して迎え入れなければならない。

 

だから、日々の生活は子どもの頃より確実に段々と色褪せて見えるようになっていた。

それが寂して仕方がなく、逆再生することなど不可能なのに、石ころのように小さなことに真っ直ぐに感動を見出せる感性を持ち続けていたい、持ち続ける子どもでいたいと思っていた。

 

ずっとそう思って、おもしろくなることはない、これからの色褪せた人生に希望を見出せないでいた。